国立博物館、アラビアの道展に行ってきた
先日、暇な時間ができたのでふらっと上野の東京国立博物館に行ってきました。
今はちょうど ”アラビアの道 サウジアラビアア王国の至宝” という特別展がやっていたので見ておきたかったのです。
普段世界史の中心として語られない地域の歴史ですが、結論から言うと興味深いものばかりで、一見の価値大いにありの展示会でした!
そもそもサウジアラビアとは?
今回の展示会の話に入る前に少しだけサウジアラビアという場所についてさらっておきましょう。
サウジアラビアはアラビア半島にある国で、サウード家という一家が代々王をつとめる王国です。
サウジアラビアのサウジもここからきています。
また、サウジアラビアはイスラム教国家ですが、そこにはイスラム教の二大聖地であるメッカとメディナがあり、世界中から多くの巡礼者が訪れることでも有名ですね。
イスラム教が誕生するはるか前からの独自の文化の発展
では、イスラム教が誕生する7世紀より前はどんな歴史があったのか。
実はこれ、あんまり学校では習わないんですよね。
しかしアラビア半島は古代から交易網が張り巡らされて様々な交流が行われ、更にもっと遡ればアジアで最初の石器もアラビア半島で誕生したそう。
その石器も展示されていて目から鱗でした。
他にも祈る男性像や黄金のマスク、3mほどの石像など、面白いものがたくさんありました。
(写真とり損ねたのが大失敗)
イスラム教の誕生と浸透
イスラム教が誕生すると、更に文化・社会は発展します。
(ここから写真撮りました笑)
世界史で習った人物がでてきてワクワクしちゃいました。
他にも10を越える墓碑がありましたが、みんな「○○の息子○○の息子○○の墓」という表記されていて、土地柄がでているなあと感じました。
これはメッカにあるカーバ神殿を覆った布だそう。
カーバ神殿は、巡礼者が目指す場所で、この中にある黒い石に向かって祈りを捧げます。
オスマン帝国のスルタン(君主の呼称)がこの扉をカーバ神殿に寄贈したようです。
1930年代まで使われていたようです。
小並みな感想を言えばハガレンの真理の扉。
ここにイスラム教の教えが書かれています。
ベールにつつまれることが多い西アジアの歴史。
今回はそんなアラビア半島への理解を深めることができました。
【書評】人口世界第4位の国はまだまだ発展し続ける~佐藤百合『経済大国インドネシア 21世紀の成長条件』~
今回紹介するのは佐藤百合『経済大国インドネシア』(中公新書)です。
この本は2011年に出版されたもので、現代のインドネシアについて書き記したものとなります。
インドネシアといえば?
インドネシアと聞いて何を思い浮かべますか?
人によって色々だとは思いますが、案外どういう国か思いつく人も少ないのではないでしょうか。
この本は、そんな人のためにインドネシアという国を理解するのにもってこいだと言えるでしょう。
では、この本の内容に言及していきましょう。
要約
- 世界第4位の人口(約2億4000万人)と豊富な資源を背景とした経済成長のポテンシャルが存在する。
- 2004年の民主化によって政治体制が安定したことで10年、20年先の「安定と成長」が見込まれるようになった。
- 経済開発戦略の要となる「フルセット主義」
人口という経済発展の武器
2憶4000万人という人口が経済発展の大きな一因となることが予想されるのですが、そこには人口ボーナスという概念が存在します。
人口ボーナスについては以前の記事で詳しく説明しているのでよかったら読んでみてください。
↓ ↓ ↓honkaraasuwotukuru.hatenablog.com
ざっくり言うと人口ボーナスというのは、出生率が下がりだすと、出生率がまだ高かったときに生まれた世代はばりばり働ける年齢になって、なおかつその働ける人口が全人口の中で相対的に割合が増える(その人たちより若い子ども世代の数が少なくなっているため)ことで経済成長につながる、というものです。
インドネシアはちょうど出生率も下がりだして、働き盛りの労働力人口の割合もこれから増えるということで、人口ボーナスの恩恵を享受できるという見立てのようです。
しかし、上にのせた『老いていくアジア』に詳しく書いてありますが、人口ボーナスというのは一時のドーピングのようなもので、出生率が下がった世代の子どもが大人になっていくと人口ボーナスは享受できず、高齢社会が訪れてしまいます。
とはいえ、まずはしっかり人口ボーナスを享受するために、本書にも書かれているように教育制度や労働法を整備してくことが求められるでしょう。
その上で必要なのが安定した政治体制でした。
民主主義への大転換
そもそも、1966年から1998年までの32年間、スハルトという大統領が政権を握り続けていました。
スハルト大統領のもとでは貧しい国家を脱却するために「開発」を掲げ、自らのもとに権力を集中させて強力な手腕でインドネシアを発展させたのです。
しかし、その権威主義体制の裏では国民の政治参加は厳しく制限されます。
本書にも書かれていましたが、開発と民主主義というのは必ずしも合致するものではないのでしょう。
そのスハルトが1998年に退任してから、三権分立や地方自治といった政治概念が導入され、ユドヨノ大統領のもとで民主化が進められていったのでした。
一定の水準まで開発が進んでしまえば、そこからの発展に民主主義の存在は欠かせないものとなるのです。
経済大国への道のり
この写真は首都ジャカルタの光景です。
高層ビルがだいぶ立ち並び経済発展の様子がうかがえます。
インドネシアの成長戦略として「フルセット主義」と筆者が表現したプランがあるようです。
インドネシアはもともとオランダの植民地でサトウキビなどの強制栽培が戦前おこなわれていましたが、戦後も資源や一次産品の輸出に国益を生み出すすべがない「オランダ病」が問題視されてきました。
つまり、工業化の経験が浅い国なのです。
資源はないが工業化で発展してきた日本と対極にあります。
この「フルセット主義」では工業化を進めつつ、他にも従来の農業や工業、サービス業において一次産品から加工品へと付加価値を創出していく、各部門での生産性向上を計画しているようです。
ポテンシャルとしてはかなりのものを秘めているインドネシア。
これからの成長に期待が高まります。
きっと日本の企業の進出もどんどん進んでいくことになるのでしょうね。
日本語もわからず田舎の中学校に通うことになったスペイン人の女の子と出会った話
どうもこんにちは。
今日はありえないくらい風が強かったですね。
大学の中にある自転車は全部きれいにドミノ倒しになっていました。
さて、今日は昨日ぼくが出会った一人のスペイン人の女子中学生について話そうと思います。
日本語が全く分からない状況で田舎の中学校に通うことになったそうで、周りの友達ともうまくコミュニケーションがとれず、これまで大変なことも色々あった、そう話してくれました。
今日の記事はそんなお話。
その子は修学旅行で東京に来ていた
ぼくは地方からやってくる修学旅行生に大学ってこんなところだよっていう話をしてあげる活動をしています。
その女の子は東北の中学校に通っているようですが、その中学校は東北の中で交通の便がよいような場所ではない地域にある学校のようで、周辺のまちにくりだすのも一苦労、といった場所にあるそうです。
もちろんそんなところにインターナショナルスクールがあるわけないですよね。
日本に来て1年半
たくさんの中学生と触れ合う中で、その子の存在にはすぐ気づきました。
話しかけてみると、普通に上手な日本語が返ってきたのでてっきり小さいころから日本で育った子なのかなと思いました。
ですが、よく話していると日本に来てまだ1年半しかたっていないそう。
びっくりしました。
なんでそんなに日本語話せるのかって。
その子は「最初の半年くらいは全く日本語もわからず周りの子たちもうまくコミュニケーションがとれなかった」と語ります。
人口も少ない田舎のほうの地域だから英語を話せる人も少なかったんじゃないかなと思います。
だからきっと日本語一生懸命勉強したのでしょう。
中学生という多感な時期に本当に大変な思いを経験してきたんだろうなと思うと胸が痛くなりました。
その活動のなかで生徒たちにディスカッションをしてもらう時間があるのですが、難しい話題になるとうまく思っていることを表現できずに困る様子を見せることも多々ありました。
その子に英語で話してもらったことを日本語になおしてあげるってこともありました。
それでもその子の笑顔は明るい
それでも彼女の表情は決して暗いものではありませんでした。
その理由はすぐにわかります。
分からないことないか何度も気にかけてくれる女の子。
その子にちょっかいをだす男子。
難しいことを聞いたら英語でそのことを伝えてくれる学校の先生。
こういう周りの人たちの温かさがあるから、彼女は心から笑っているように思えた。
きっと想像もつかないくらい大変なこともあったでしょう。
大変の大小は異なってもそういうことって誰しもぶつかるときはあると思います。
そういうときに支えてくれる人の存在って本当に大切なんだろうな。
そんなことをふと思う一日でした。
【書評】衝撃、増え続ける子どもの貧困~保坂渉・池谷孝司『子どもの貧困連鎖』~
本の紹介
今回紹介するのは、保坂渉・池谷孝司『子どもの貧困連鎖』(新潮文庫)です。
これは共同通信社の記者である著者の2名が、実際におこなったインタビューを通して書き上げたノンフィクションです。
内容はタイトルからわかる通り、現代日本社会における子どもの貧困についてで、高校生、中学生、小学生、保育園児の4つの時期に分かれた4章構成となっています。
このルポが書かれたとき(2011~12年)日本では、親の経済力の格差のために、子どもの6人に1人が貧困状態にありました。
両親に経済力が無いということが、子どもに継承されて、貧困の連鎖となっているわです。
ちなみに、以前読んだ本で世代をこえる格差は歴史的に見て大きな変化は逆にないと統計的に検証している本がありました。
h¥onkaraasuwotukuru.hatenablog.com
このこととは異なる現代社会の問題が起こっているような気がしてなりません...
インタビューを通して実際この本に記されている子でどもたちは、公衆トイレで寝泊まりする女子高生であったり、生活へのストレスから母親から虐待を受けた中学生であったり、車上生活する保育園児であったりと目を疑うようなものばかりです。
しかしそのような子どもに対してなんとか状況を変えようと努力する学校関係者などの大人もこの本には登場します。
家庭に何度も何度も訪問したり、保健室にやってくる貧しい子どもに朝ご飯を与えつつ家庭の様子を聞き出してその親に接触したりと、教育にたずさわる姿勢のあるべき姿というものも書かれていました。
そして各章の最後には、専門家へのインタビュー記録も書かれていて、そこでは現在教育における子どもの貧困問題に対してどのような取り組みがなされているのか、また必要なのか、ということを学ぶことができるようになっています。
感想・書評
この本を読んで思ったことは大きく3つです。
表面的に見えにくい子どもの貧困
まず一つ目は、何度もこの本を通して出てきた言葉、「子供の貧困は表面的には見えにくい」ということです。
そこそこの身なりならすぐに整えることができる、スマートフォンだってもっている、何不自由ない人をとりつろうことは案外簡単にできてしまいます。
しかし実は家の中では明日食べていくお金もない。
一昔前は地域の結びつきというものが強く、家と家との境界というものは今より精神的に希薄なもので、困ったときはお互い様、食べ物もあげたり、といった精神文化があったように思えます(その時代生きていたわけではないけれど)。
しかし今はそういったものはだいぶ薄れ(とくに都市において)、貧困というものになかなか気づけません。
僕たちが思っている以上に、すぐ隣近所でも生活に苦しんでいる人たちがいるのかもしれません。
※上でこの本が書かれたとき子どもの貧困は6人に1人と書きましたが、今月(4/9発売)の東洋経済によると子供の貧困は7人に1人になってはいるそうです。
有益な識者インタビュー
二つ目は、各章の終わりについている識者インタビューが大変参考になるものであったということです。
欧米の社会の給付制度や教育制度との違いや、現状の政策の問題点においてよくわかりました。
今の日本の大きな問題は、教育に対して政府からお金が落とされないこと。
財源がないという理由で大きな変革がうまれません。
最後に大きなつけがまわってしまうのは子どもたちです、これは大人達の、日本社会の大きな恥となるでしょう。
貧困問題の拡大
そして三つ目は、これからこの子ども貧困問題は更に広がっていくであろうということです。
貧困問題が大きな問題になったのはリーマンショックのあった二〇〇八年でしたが、あれは大人の貧困問題でした。子どもの貧困問題が来るのはタイムラグがあって十年後か二十年後に本番が来ると思います。つまり、いま貧困状態にある若者たちが家族を形成して、その子どもたちが学校に上がってくるのが十年後です。子どもの貧困問題が深刻化することは間違いありません。
(本書149頁より)
この引用からも分かるようにこれから日本に訪れる格差問題は更にひどくなるのかもしれません。
大事なのはどうやって対処していくか、それを今の段階から一人ひとりが考えていく必要があると思います。
今自分にできることはなんなのだろう。
この本のあとがきに書かれていたように「お節介」がもっと大事になるのかもしれない。
もっと他人に干渉していかないといけないのかもしれない。
でも正直そのちゃんとした答えは僕にははっきりと分かりません。
ただ、まずは知ること、そこから始めないといけないことはたしかだと思います。
そういう意味でこの本に出合えたことは本当に良かったです。
❮旅❯韓国旅行記②~韓国と北朝鮮をつなぐ希望の駅は今・・・
これは以前書いた韓国旅行記①の続きです。
前の記事はこちら。
honkaraasuwotukuru.hatenablog.com
さて、今回は前回に引き続き韓国と北朝鮮との国境付近のDMZにいったお話です。
DMZって何?という方、上の記事で詳しい説明をしたのでそちらをよかったらご参照ください。
ざっくり説明すると一触即発の事態を避けるために国境付近に定められた非武装地帯のことです。
南北統一を願う駅
今回紹介したいのはこちらの都羅山駅です。
この駅は韓国と北朝鮮の境界駅、正確には韓国にある駅で最も北朝鮮に近い駅であると言えます。
とても新しいかんじがするのは、融和ムードだった2002年に建てられた新しい駅、というだけでなく、DMZ内の駅であるために出入りが自由でないので生活目的に利用されていない、ということもあるのでしょう。
今は観光目的となっていて本来の駅としての機能は失われています。
この駅は韓国から北朝鮮へとつながる電車の最初の駅として建てられたので統一の願いの象徴でもあるようです。
駅の中には、
「ここは南の終着駅ではない、北へと続く最初の駅である」
と書かれている看板が。
当初の構想としては韓国から北朝鮮、そして中国、ロシア、ヨーロッパとユーラシア大陸を横断する鉄道の最初の駅として作ろうともしていた、とガイドさんが言っていました。
未だ叶うことのない”平壌方面”の文字が希望と悲しさを背負っています。
ここで出国の荷物検査などを行う予定なのでしょう。
2002年にこの駅が建てられたときには当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュと韓国の金大中(キムデジュン)大統領がここを訪れました。
駅の中にはその二人のサインが飾られています。
上の写真がブッシュで、下の写真が金大中のものです。
いつかこの駅が観光目的でなく、本当の駅として使われるときはくるのでしょうか。
同じ民族なのに他国の利害によって分断されてしまった場所。
その悲劇の背景には日本も関わっているわけですから(というか発端は植民地にした日本でもある)、ぼくたち日本人が向き合わないといけない場所の一つなんだろうなと思います。
北朝鮮が韓国に進行するために掘った秘密のトンネル
今回もう一つ紹介したいのは、北朝鮮が韓国に侵入するために秘密裏に掘ったトンネルの存在です。
現在見つかっているトンネルは現在確認されているだけで4つあって、地下25メートルのものから100メートルを超える深さのものまであります。
これらのトンネルは脱北者の証言によって存在が明らかとなり、実際に韓国が調査してみたところトンネルが発見されたようです。
さすがに韓国がそのトンネルに到達したときは北朝鮮軍は撤退していたようですが・・・。
今回いってきたのは、その中の第3トンネルと呼ばれるものです。
第3トンネルは1978年に発見されましたが、発見された場所は国境を越えてソウルまで52キロしか距離がないところまで進行していたので、最も驚異的なものであったとされています。
とても恐ろしい話です。
残念ながらトンネル内の写真の撮影は禁止でしたが、中に入ることはできました!
中はとても狭く身長が180cm近くある僕の身長では思いっきり背中を曲げないと頭がぶつかってしまいます。
欧米からの観光客の方たちはとても窮屈そうでした(笑)
この第3トンネルの入り口に併設して朝鮮戦争から今に至るまでの歴史を振り返る展示館がありました。
ちょっとわかりづらいですが、トンネルの断面の模型です。
ちょうど上はDMZになっているので自然が豊かな場所となっています。
そこではこのトンネルについての詳しい情報も学べます。
日本語でも書かれているのでありがたい。
またそれだけでなく、朝鮮戦争で実際に使われた兵器なども展示されていました。
最後に
以上、韓国にいって北朝鮮との国境の近くまで行ってきた話でした。
同じ民族でありながら、二つの国家に分断されてしまったという悲劇。ここ最近平昌オリンピックを機に北朝鮮と韓国の距離が接近してきたようですが、果たして本当の統一は実現される日はくるのでしょうか。
もちろんこのことは日本と関係なんて言うことはできません。
同じ東アジアの国であると同時に、かつてのこの地帯の宗主国であるのだから。
今の日本人に何ができるか、それは一人ひとりが考えていかないといけないと思うけれど、まず知ること、そこから始めていく必要があるんだろうな、そう思います。
そんなことを考えさせられた韓国旅行でした。
【書評】自由とは、人間とは何か、あまりにリアルな”砂”を通して描き出す文学作品~阿部公房『砂の女』~
本の紹介
ここではまだネタバレを含みません。
”八月のある日、男が一人、行方不明になった。”
この文章からこの小説は始まります。この男に何があったのだろうか、というところから始まり、その全容がこの本であると言えるでしょう。
その男は、教員をやっていて休暇をとり、新種の昆虫を探しにやってきたのでした。
そんななかある部落にたどり着き 、宿を借りるために砂丘の穴の中にある家を訪れました。そこには30代前後の人の好さそうな女が住んでいたのですが、その砂丘の穴に入ってしまったのは部落の罠で、男はその一軒家に閉じ込められてしまいます。
一軒家が砂に埋もれないように砂をかき、男を閉じ込めようとする女。
その事実に気づき、なんとかその穴から脱出しようとする男。
そこからこの物語はこの二人の関係を淡々と、しかしどこか読者が息詰まるようなリアリティをもって描き出されます。
その背景には静・動・流・止といった砂という物質の表現が存在します。
そんな人間の関係と非生物である砂の表現を通して、自由とは何か、人間とは何か、描いているのがこの本であると言えるでしょう。
20数か国後に翻訳された日本文学における名作であり、一読の価値ありの作品です。
感想・書評
※ここから最後の結末込みで書くのでネタバレが嫌な方は読むのをやめてください。
この本には高校の時に初めて出会い、今大学院生になって二度目の読書となりました。
うまく表現できないのですが、阿部公房の作品って彼にしか表せないようなものが描かれています。何のために生きるのか、自由とは何なのか、官能性、といったような人間の根源にある欲望といったもののようなものであるようにかんじます。
この男は、女の住む家に閉じ込められ、その穴から脱出して自由を得ようと試みます。しかし時がたち、女との関係が徐々に変わっていき、水が湧き出ることも発見してその溜水装置の研究に生き甲斐を見出した男は、最後に女が妊娠して町の病院へと運ばれたことで穴に降ろされた梯子を見ても、もうその穴から自由になれるのに、男はその穴にとどまることを自ら選択するのです。
そもそもは普段の生活からの逃避を目的として昆虫探しの旅にでた男です。最後に自分の人生の選択というものが初めてできるようになったとき、その選択した先にあるのは自由ではなく、ただのもとの日常であるということを悟ったのかもしれません。
人は自由を求めめるものですが、真に求めているのは選択する自由であって、その先にある自由というものはまやかしなのかもしれませんね。
この物語は最初読んだときカフカの変身のような不条理(突然穴に閉じ込められるわけですから不条理であることには間違いない)を描いたものに思ったのですが、二度目に読んでみるとどちらかというとそういった自由を求めることの本質、人間の本質というものを描いているのかな、と思えました。
もう一つ、この本の面白い、すごいと思えるのが、砂の表現です。
”1/8m.m.の砂”、といった表現に代表される数量的・幾何学的な表現から、砂を通すことで女の官能的なありようにリアリティをつけていく表現まで、圧巻されるものが多いです。そして砂を通すことによって、男が閉じ込められた生活の苦しさ・渇き・苦しみといったものが迫ったように感じられます。
タイトルにも含まれる砂、これに阿部公房は何か特別な意味を込めたかったのではないでしょうか。
そのヒントは男の考え、台詞にもあらわれていると思います。
「平均1/8m.m.という以外には、自分自身の形すら持っていない砂......だが、この無形の破壊力に立ち向かえるものなど、なに一つありはしないのだ......あるいは形態を持たないということこそ、力の最高の表現なのではあるまいか......」
「けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか…...砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない......砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだという......」
この本文に書かれていることから、砂とは、”人間の力では抗うことのできない変わり続ける世界”を表しているのではないだろうか。そう思いました。
そうした人ひとりではどうしようもない世界を、現実を前にしたとき、どのように生きていくべきなのか。また、他人とどのような関係を築いていくのか(これを描くために男と女という二人の人間関係に絞ったのではないでしょうかないでしょうか、村人はいますが深い関係としての人間関係にまでは発展しません)、そして自由とは何なのか。
そういったものをこの作品を通して描きだそうとしたのかもしれません。
一読の価値あり、ぜひ読んでみてください。
❮旅❯韓国旅行記①~ソウルから北朝鮮の国境付近に行ってきた話
どうもこんにちは。
最近更新が止まっていました、というのもここ最近3日間を使って韓国にふらっと旅行にいっていたからなんですね。
韓国!
といえば、
キムチ、焼肉、のり、美容…といった言葉が連想されますよね。
実際そういうやつも体験してきました、気が向いたらそっちの話も記事にしようかなと思います。
ですが、この旅で何よりも記事にしたかったこと、それは、
北朝鮮との国境を見てきたこと
です。
僕たち日本人は島国に住んでいることもあり国境というものを実感することはほぼありません。
ましてや朝鮮戦争を経て生まれた国境。
その場所に行ったら様々な思いを持たずにはいられませんでした。
これから紹介するのは、国境を感じたいろいろなお話。
(紹介の中で一部時系列は異なります)
国境をつくる川、そしてDMZへ
国境付近を訪れるならばツアーがおすすめです。
韓国の首都ソウルからバスで出発するツアーで、日本語をしゃべることができるガイドさんが各スポットを説明してくれました。
バスの中で国境地帯に向かいながら、ガイドさんは流暢な日本語で韓国の歴史を話してくれたのですが、驚いたのは僕が知る日本で習った歴史とそんなに違いがなかったということ。
当たり前だと思うかもしれませんが、歴史というのはその国ごとによってつくられるものであり、必ずしも過去にあった事実≠歴史ではありません。韓国と慰安婦問題で両国民に歴史観の相違があるのはそういうところに根付いています。
日本人向けのツアーであるという理由はもちろんあるとは思いますが、驚いた部分であります。
そのガイドさんは言っていました。
「かつて朝鮮半島の国はずっと一つでしたが、1910年日本の植民地となり、国を失いました。そして第二次世界大戦後、アメリカとソ連をはじめとした冷戦を主導する国々の介入を受け、戦争を通して同じ言葉を話す同じ民族が二つの国に分断してしまったのです。」
淡々と事実を述べたその言葉は、その悲劇を経験した土地で生まれし人が話すと重みが変わる。教科書で読んだだけの知識が、目の前の現実として迫ってきてとても胸が重くなりました。
他にも冷戦の裏話としてアメリカのマッカーサーが朝鮮戦争でおこなった作戦など、朝鮮戦争の詳しい話を聞くこと1時間強ほど、バスは韓国と北朝鮮を分断する臨津江(イムジン河)が見えてきます。
そして川を渡る前に(え、川渡ったら北朝鮮行っちゃうんじゃないのと思った方、実は一部分だけ川を渡っても少し韓国の国土が続く場所があるんですね。ツアーではそこにいきます、だって川を経なくて陸続きのところで北朝鮮を見ることができるのですから)、臨津閣(イムジンカク)という場所によりました。
この臨津閣は軍事境界線の南7kmに位置する記念公園みたいなかんじのところです。
これは望拝壇というもので、民間人が許可なく最も北朝鮮に近づくことができる場所であり、南北分断した際に北朝鮮に離れ離れになってしまった家族や友人を思い、祈りをささげる場所のようです。
その裏側には「自由の橋」と呼ばれる橋があります。
これはかつて休戦協定によって北朝鮮側に捉えられた捕虜が解放されたときに、「自由万歳」と叫んでこの橋を渡ってきたことに由来するそう。
先は今では行き止まりになって渡ることはできません。
この臨津閣では平和と統合を願いが書かれたたくさんの短冊のようなものが風になびきます。
そして離散した家族のことを歌詞にうたって大ヒットした「イムジン河」という歌が大音量で流れていました。
ここは朝鮮戦争の休戦による戦争からの自由と、戦争のしがらみが同時に今なお続く場所なのでした。
そして、再びバスに乗り、臨津江を唯一越えて川の向こう側に行くことができる「統一大橋」を渡っていきます。
橋の上でバスは一度泊まり、韓国の軍役に従事する若者がバスに入ってきて一人ひとりパスポートをチェックします。
休戦国同士の国境に近づいているのだという緊張感が高まりました。
ここで、DMZについて少しふれておこうと思います。
DMZとは、DeMilitarized Zoneの略で、日本語では非武装地帯と言います。
これは紛争や停戦状態にある二つ以上の国家の間に平和条約や停戦協定等によって設けられる軍事活動が禁止されている地域のことです。
韓国・北朝鮮の場合、1953年の停戦協定以降軍事境界線として定められた北緯38度線の南北2キロ、計4キロの幅のベルト状の地帯がDMZとなりました。
ちなみに、ここは非武装地帯として人の軍事介入が行われないことで豊かな生態系が育ち、様々な動植物の楽園になっているようです。
小高い山から見えた北朝鮮の町並み
川をわたった先のDMZには小高い丘のようになった頂上に都羅山展望台という展望台があります。
ちなみにその山は朝鮮戦争の傷跡として、未だ地雷が埋まっているので決して道路の外に飛び出してはならないそう。
その展望台は見晴らしがよく、双眼鏡を覗けばなんと北朝鮮の町まで見ることができます。
運よく僕が行ったときは天気がとてもよかったので、とてもよく見ることができました。
この写真の左に北朝鮮の、右に韓国の国境が立っているのに気づきましたか?
つまりこの写真のちょうど真ん中あたりを国境が通っているのです。
これは実際の北朝鮮の街並みです。
工業団地のようで、南北の国交が良好だった数年前は韓国の人がそこまで行って働いていたそうです。
今は北朝鮮が核開発を進めて関係が悪化したため行くことは禁止されています。
展望台にある双眼鏡を覗くとよりはっきりと街並みが分かります。
目と鼻の先には北朝鮮が。
そこに住んでいるのは韓国の人たちと見た目も言葉も何も変わらない人たち。
なのにそにすぐちょっとの距離を決して越えることができない何かが、そこに立ちふさがっていました。
こうして韓国と北朝鮮との国境というものを緊張感を帯びてまじまじと実感した旅。
しかしDMZでの体験はまだこれで終わりではありません。
続きは別の記事で!