【書評】自由とは、人間とは何か、あまりにリアルな”砂”を通して描き出す文学作品~阿部公房『砂の女』~
本の紹介
ここではまだネタバレを含みません。
”八月のある日、男が一人、行方不明になった。”
この文章からこの小説は始まります。この男に何があったのだろうか、というところから始まり、その全容がこの本であると言えるでしょう。
その男は、教員をやっていて休暇をとり、新種の昆虫を探しにやってきたのでした。
そんななかある部落にたどり着き 、宿を借りるために砂丘の穴の中にある家を訪れました。そこには30代前後の人の好さそうな女が住んでいたのですが、その砂丘の穴に入ってしまったのは部落の罠で、男はその一軒家に閉じ込められてしまいます。
一軒家が砂に埋もれないように砂をかき、男を閉じ込めようとする女。
その事実に気づき、なんとかその穴から脱出しようとする男。
そこからこの物語はこの二人の関係を淡々と、しかしどこか読者が息詰まるようなリアリティをもって描き出されます。
その背景には静・動・流・止といった砂という物質の表現が存在します。
そんな人間の関係と非生物である砂の表現を通して、自由とは何か、人間とは何か、描いているのがこの本であると言えるでしょう。
20数か国後に翻訳された日本文学における名作であり、一読の価値ありの作品です。
感想・書評
※ここから最後の結末込みで書くのでネタバレが嫌な方は読むのをやめてください。
この本には高校の時に初めて出会い、今大学院生になって二度目の読書となりました。
うまく表現できないのですが、阿部公房の作品って彼にしか表せないようなものが描かれています。何のために生きるのか、自由とは何なのか、官能性、といったような人間の根源にある欲望といったもののようなものであるようにかんじます。
この男は、女の住む家に閉じ込められ、その穴から脱出して自由を得ようと試みます。しかし時がたち、女との関係が徐々に変わっていき、水が湧き出ることも発見してその溜水装置の研究に生き甲斐を見出した男は、最後に女が妊娠して町の病院へと運ばれたことで穴に降ろされた梯子を見ても、もうその穴から自由になれるのに、男はその穴にとどまることを自ら選択するのです。
そもそもは普段の生活からの逃避を目的として昆虫探しの旅にでた男です。最後に自分の人生の選択というものが初めてできるようになったとき、その選択した先にあるのは自由ではなく、ただのもとの日常であるということを悟ったのかもしれません。
人は自由を求めめるものですが、真に求めているのは選択する自由であって、その先にある自由というものはまやかしなのかもしれませんね。
この物語は最初読んだときカフカの変身のような不条理(突然穴に閉じ込められるわけですから不条理であることには間違いない)を描いたものに思ったのですが、二度目に読んでみるとどちらかというとそういった自由を求めることの本質、人間の本質というものを描いているのかな、と思えました。
もう一つ、この本の面白い、すごいと思えるのが、砂の表現です。
”1/8m.m.の砂”、といった表現に代表される数量的・幾何学的な表現から、砂を通すことで女の官能的なありようにリアリティをつけていく表現まで、圧巻されるものが多いです。そして砂を通すことによって、男が閉じ込められた生活の苦しさ・渇き・苦しみといったものが迫ったように感じられます。
タイトルにも含まれる砂、これに阿部公房は何か特別な意味を込めたかったのではないでしょうか。
そのヒントは男の考え、台詞にもあらわれていると思います。
「平均1/8m.m.という以外には、自分自身の形すら持っていない砂......だが、この無形の破壊力に立ち向かえるものなど、なに一つありはしないのだ......あるいは形態を持たないということこそ、力の最高の表現なのではあるまいか......」
「けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか…...砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない......砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだという......」
この本文に書かれていることから、砂とは、”人間の力では抗うことのできない変わり続ける世界”を表しているのではないだろうか。そう思いました。
そうした人ひとりではどうしようもない世界を、現実を前にしたとき、どのように生きていくべきなのか。また、他人とどのような関係を築いていくのか(これを描くために男と女という二人の人間関係に絞ったのではないでしょうかないでしょうか、村人はいますが深い関係としての人間関係にまでは発展しません)、そして自由とは何なのか。
そういったものをこの作品を通して描きだそうとしたのかもしれません。
一読の価値あり、ぜひ読んでみてください。