お金の表示価値と本当の価値の違いとは?江戸時代の小判から考えてみた
1円玉から諭吉さんまで、普段当たり前に使っているお金。
何か欲しいものがあるときに必ず必要なもので、今の社会で生きていく上では切っても切り離すことができません。
さて、このお金ですが、お金に表示されている価値(1000円札なら1000円という価値です)と本当のお金の価値ってちょっと違うんです。
経済学的に言えばマルクス経済学とかまでさかのぼるんですが、難しい話なので今日は控えておきます。
では表示価値と本当の価値は何が違うのか。
色んな説明の仕方があるのですが、江戸時代のお話からこれを説明してみましょう。
江戸時代は小判の世界
江戸時代は今とお金のシステムが大きく異なります。
ざっくり言えば、政府の信用に裏付けされた価値によってその表示価値が成り立つのが現代の日本のお金で、一方お金自体が価値を持っているのが江戸時代のお金なわけです。
どういうことかと言うと、現代の日本の紙幣、あってただの紙切れだから実際は一万円の価値はありませんよね。
でも政府が「この紙切れは1万円の価値として日本の中で通用させていいよ」というから1万円ぶんの価値が裏付けされるわけです。
究極言えば、もし日本政府が突然なくなってしまったら、諭吉さんは紙切れ同然となり、カップラーメンひとつすら買うことはできなくなるわけです。
一方で、江戸時代の場合、小判だとか、銀貨だとか、その金属自体に価値があるものが多くなります。
もちろん例外(例えば藩ごとに発行する藩札という紙幣とか)はありますが、金や銀が流通の中心でした。
こうなると、政府、つまり江戸幕府が小判自体に価値の保証をしなくても勝手に金貨自体が価値をもっているわけです。
ですから江戸時代がなくなって100年以上たつ今でも小判が高い値段で取引されるのはそういう理由があるわけです(もちろん歴史的価値が上乗せされてはいますが…)。
こうやって今のお金と昔のお金を比べてみると、現代のお金って結局バーチャルなものだってことが分かります。
比べることで今がより分かるようになるというのが歴史を学ぶ醍醐味ですね。
江戸時代から考える日本人のお金に対する考え方
さて、そんな江戸時代ですが、実は「お金に使われる金属材料の価値≠お金の価格」というお金も存在しました。
有名なのは一分銀と言われる銀貨で、一つの銀貨のなかには本当は銀が少ししか使われていなくて、残りの大半はもっと価値の低い金属をまぜてつくられたものがありました。
一分銀銀貨に使われた銀の価値の約4倍の価値で流通していたと言います(つまりその銀貨の金属価値としては流通額ほど価値はない)。
これは幕府がその価値で流通させよ、といったからです。
しかし、現代ほどちゃんとした金融制度が整っていない江戸時代では、そのような銀貨があれば、貨幣になっていない銀と交換してしまいそうなものです。
なぜかというと、例えば、
その銀貨10枚で買えるだけの純正の銀を買う
↓
買った純正の銀を使って銀貨をつくる
↓
その銀貨は実際の価値の銀の4分の1の量しか使わず後は安い金属を混ぜて作れるから、大まかな計算で銀貨40枚作れてしまう
という銀貨の錬金術ができてしまうわけです。
今の時代は、政府が認めているお金以外は価値を認められないからこういうことはできませんが、昔は偽のお金なんてよく流通していたからこんなことができてしまいます。
実際中国ではかつてそのような銀貨の錬金術がたくさん行われ、政府が望む銀貨が流通しない、ということもありました。
しかし不思議なことに多少の不正はあるものの、日本ではちゃんと銀貨が流通するんですね。
その理由には当時鎖国していたから庶民が海外で出回る銀の価値にでくわさなかったら、など様々な説があります。
しかしとにかくこのことからも、日本人はそのものの価値でなく、名目上のお金の価値を信じやすい民族であることがわかります。
そしてそのことは今現代になってもあまり変わりません。
政府の国債が増えて、政府の信用が足りるものなのか分かりかねることが多くても、日本円の価値を疑う人はあまりいないように思えます。
今のお金の本質はバーチャルだ、という感覚をもって生きていくことは何があるか分からないこれからの時代、必要になってくるかもしれません。