なんでもかんでも悪しき伝統なのか。日大アメフト部問題から考える
こんにちは。
ここ数日、日本大学のアメリカンフットボール部の反則行為の問題でニュースはあふれかえっていますね。
監督から本当に反則行為を強要させられていたならば、スポーツマンとしてその大学生はどんなにつらいことか…。
彼は実名を出し、多くの報道陣たちの前で謝罪会見を開きました。
その勇気は素晴らしいものであると思います。
さて、こうして世論は監督へのバッシングが激化します。
まあ当然ですね。
そんな中こんな意見も出てきます。
「上からの重圧には逆らってはいけない日本の悪しき伝統だ」
「まるで今回の一件は行きたくもないのにお国のためと特攻させられた特攻隊と同じ構図だ」と言うツイートも見かけました。
実際よくない、それはその通りだと思います。
ただ、それをすべて悪しき伝統と言ってしまうのはあまり好きではありません。
そのような文化が根付いたのにはそれが受け入れられる必要な背景があったはずなんです。
歴史的に見てその背景は少なくとも二つあると思っています。
一つは、江戸時代から続く武士道の理念です。
儒学的思想などを取り入れて、江戸時代、目上の人は必ず敬い、目上の人のいうことは聞き守らなければならぬ、ということが通年的でありました。
そしてそれをよしとして納得している人が多かったと言われいます。
なぜなら、上に立つ人も武士道を理解していて、それに準じた行動をとる人が多かったからです。
身勝手な君主は暴君と称されますが、民のことを考える君主は名君とたたえられます。
ただ、一定数は今日の日大アメフト問題と同じように権力をふりかざすトップもいたようですが…。
でも、そういった武士道による美徳もあったとも忘れてはいけないと思います。
もう一つは、上からのトップダウンによって日本は発展してきたところが大きい、ということです。
日本はこれまでいくつもの危機に面してきましたが、その中でも特に痛烈だったのは江戸時代末期からの開国に伴う欧米諸国からの植民地化の危機と戦後からの復興であったと思います。
どちらとも、その危機を乗り越えるために、政府や大商人・大企業などが中心になって制度作りや経済の活性化を実現させてきました。
その実現のうえで、トップに立つ人たちは強力なリーダーシップのもと多くの人をひっぱっていくことがどうしても必要でした。
誰もが好きな意見をただいうだけじゃ急発展はできなかったのかもしれません。
つまり、こうした「上の人の言うことに逆らうことが出来ない」という伝統にはそうでもしなければならない理由があって、それがあったからこそ今の日本ができてきた、ということは事実なのではないでしょうか。
それを理解すれば、その時代ごとに適切な考え方がある、ということがわかるはぜです。
ただいまはそれが必ずしも正しい時ではない、ただそれだけのこと。
個人的には武士道に通ずる先人を敬うことは大切なことだと思っています。
そういった大事な所だけは残して、今の時代にそぐわないところはきっぱり捨て去る、ということができたらいいんじゃないか、そう思います。
まあ今回の日大の一件のようなところは捨て去るべきだと思いますけどね。