❮探訪❯石炭の町、夕張を訪れる①~石炭博物館に行ってみた~
先日、書評で北海道の夕張について炭鉱で栄えた時から財政破綻に至るまで、そして炭鉱で働いていた人たちの声を記録した『夕張は何を語るか』という本についての記事を書きました。
honkaraasuwotukuru.hatenablog.com
その記事でも書いたのですが、この本を読むきっかけが実際に夕張を訪れたことでした。
そこで今回は夕張に訪れたこと、特にその中でも自分にとって大きな意味のあった石炭博物館について紹介していこうと思います。
夕張市は札幌から1時間半程車で移動したころにあります。
財政破綻した町、ということでどんなものだろうかと思っていたのですが、やはり人口流出が進んでいるせいか人をあまり見かけません。
そしてもう使っていないのだろうと思われる建物も多くありました。
その夕張市の中にあるのが、この石炭博物館です。
以下wikipediaからの引用です。
石炭の歴史村の整備に合わせてその中核施設として1980年(昭和55年)7月に開館したもので[4]、1970年(昭和45年)開設の夕張市郷土資料館(後に夕張市炭鉱資料館に改称)を前身としている。
北海道の明治期以降の基幹産業となった石炭産業を、石炭と炭鉱のテーマに分け、石炭の生成から開発、利用など技術や労働、生活を実物の資料、坑道、石炭層などから紹介している。
見た目はレンガ造りの建物です。
中に入ると、石炭に関する多くの展示品がありました。展示室は主に石炭の生成過程などについて紹介されている1階と炭鉱の仕組みや鉱夫の生き方などについて紹介されている2階に分かれています。
この写真は主に2階の炭鉱に関するものです。僕はこれまで炭鉱というものがどういうものだったかなんてほぼ知らなかったので色々な衝撃を受けました。炭鉱とは想像以上に過酷な労働環境で、文字通り命がけのものでした。石炭を採掘するために山の中を掘っていくので、坑道が崩れて生き埋めになったり、ガス爆発に会うことがあるのです。
そういった特殊な労働を管理するために独自の労使関係や文化などができていきます。
ただ、僕の心に一番残ったのは、鉱夫である父親を炭鉱事故でなくした小学生の作文でした。
その文章は親を突然失った小学生のものとは思えないほど淡々と書かれていました。一字一句正確な言葉は思い出せませんが、「お父さんはもう運動会で僕のことを見に来ることがありません。そう思うと悲しいです。」といったかんじのことが書かれていたと記憶します。
その小学生が大人びているのかもしれませんが、きっと常に命を落とす危険と隣り合わせで実際に事故で命を落とすことが度々あった町だったからこそ、家族が炭鉱事故で帰ってこなくなることがある意味異常なことではなかったのかもしれません。
2階を見終わり、今度は下におりて実際に坑道を再現した展示場へと足を運びます。
炭鉱で働くって本当に大変なんだな、それにつきます。
人びとの様子がかなりリアルに再現されていて、こんなに狭いところで採掘していたのかということがよく分かります。
そして凄いのが音です。イメージわかないかもしれませんが、坑道を掘削していくために使う機械の音を再現して聞くことができるのですが、その音がとにかくすごい。
ガガガガという耳をつんざくような、ものすごい音でした。
この坑道を抜けると外に出て、「あっ、これで終わりなのか」ってなりました。
こうして石炭博物館を見終わったのですが、せっかくなので辺りを散策してみました。
夕張の歴史村のマスコットキャラクターみたいです。
名前はゆうちゃん。
なぜか壊れた足がおかれていました。このなんとも言えない表情、なんでしょうか...。
他にも建物はあったのですが、どれも今はやっていませんでした。
化石の展示館など、学術施設として石炭博物館を中心とした石炭の歴史村構想を担うべく建設された諸々の施設は石炭博物館以外は今はやっていないようですね...。
今の町の姿を写しているようで悲壮感が漂います。
石炭博物館は、一昔前まで日本の経済発展ためのエネルギーである石炭を主要産業として栄えた夕張の歴史が事細かに展示されていました。
こんなに貴重で、日本に欠かせなかった場所の歴史が、人びとの生きざまが、財政破綻の波にのまれて閉鎖でもしてしまうようならそれはとてももったいないことです。
ここには僕たち日本人が知るべきことがたくさん眠っています。
ぜひ、北海道に行った際には足を運んでほしい場所でした。